今から109年前の1905年、そのころ経済恐怖で人心の荒れすさんでいたアメリカ社会、特にシカゴの状態を憂えた、青年弁護士ポールP.ハリスが、3人の友人と語らって2月23日、第1回の会合を開いたのが、ロータリークラブの誕生であります。ロータリーとは、会員が持ち回りで順番に、集会を各自の事務所で開いたことから名付けられました。このクラブは着実に成長し、現在200以上の国家に広められ、クラブ数36,782、会員総数1,198,766人に達しています。これらクラブをメンバーとして国際ロータリーが構成されています。(2021年5月18日現在)
このように、歴史的に見ても、ロータリーとは職業の倫理を重んずる実業人、専門職業人の集まりなのです。その組織が地球の隅々まで拡大するにつれて、ロータリーは世界に眼を開いて、幅広い奉仕活動を求められるようになり、現在は多方面にわたって多大の貢献をしています。
1905年、シカゴ・ロータリークラブの会員だった彫刻家のモンタギュー M.ベアが13本の輻のある馬車の車輪をクラブ徽章として描きました。これが、初期の国際ロータリーのロゴに影響を与えましたと言われています。1911年、歯車を各ロータリークラブの徽章の基本要素として設定することを推奨し、1912年のダルース国際大会でデザインが提出されました。いくつかの定義が規定され、クラブは同様のデザインを使用し、「Rotary」を上部に入れ、下部に各クラブの所在都市名を表示することが推奨されました。輻と歯車の数は指定されておらず、その結果、1918年までは多種多様な徽章が使われていました。徽章の種類が増え続ける事態となりロータリー徽章規格化担当委員会を設立し、頑健な印象の6本の輻と24の輪歯の徽章にデザインされました。1919年11月、理事会はデザインを採用し、1921年の国際大会で正式に承認されました。1924年、デザインが修正され、一つの楔穴が追加されました。ロータリーを「生きた力」とみなし、こしきに楔穴を付けることで歯車を「動くもの」にしました。1929年の国際大会で、楔穴つき既存デザインの標準仕様が正式に承認されました。
言行はこれに照らしてから "of the things we think, say or do"
日本初のロータリークラブは、日本人ビジネスマン、福島喜三次氏と米山梅吉氏がアメリカでの出会いがきっかけでした。1920年代初め、日本に帰国した二人は、他22名の創立会員とともに東京ロータリークラブを設立し、1921年4月1日に日本で第一号となる東京ロータリークラブが加盟認証されることとなります。
1923年大阪に赴任した福島氏の働きかけで、日本二番目となる大阪ロータリークラブが加盟認証されました。1925年日本での特別コミッショナーの任を受けていた米山氏の努力もあり、名古屋、神戸、京都と3つのクラブが加盟認証されました。
1940年、第二次世界大戦直前、国際団体に対する圧力がロータリーにもおよび、ついに日本のクラブも、国際ロータリーから一時脱退しなければならなくなりました。しかし、ロータリーの精神は日本でも強く生き続け、第二次世界大戦中にも多くのロータリアンが「○曜会」という名で例会を続け、その結果を1949年3月、東京ロータリークラブに新たな加盟認証状を伝達。京都、大阪、名古屋、神戸のロータリークラブも、4月末までに復帰しました。